
世界を動かす半導体産業。その最前線を牽引してきたトップランナーたちは、どんな選択と決断を重ねてきたのか──。知られざる半生に迫る連載企画、「Silicon is my life」。
今回話を聞いたのは、18年以上にわたり東芝で半導体集積回路の設計に携わったのち、アカデミアの世界へ転身した黒田忠広氏だ。現在は東京大学で「d.lab」や「RaaS」などの拠点を率いるほか、熊本県立大学理事長に就任するなど、ビジネスとアカデミアの視点から日本の半導体産業再興の旗振り役を担っている。
日本の半導体が世界を席巻した熱狂の時代、そして業界の浮き沈みを経験し、いまは「次世代の育成」という次なる挑戦へと向かう黒田氏のキャリアヒストリーに迫る。(全4回)
(プロフィール)
熊本県立大学理事長/東京大学特別教授
黒田忠広
東京大学卒業。東芝研究員、慶應義塾大学教授、カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)MacKay Professorを歴任。現在、東京大学特別教授、熊本県立大学理事長、慶應義塾大学名誉教授。米国電気電子学会と電子情報通信学会のフェロー。「半導体のオリンピック」と称される国際会議ISSCCで、60年間に最も多くの論文を発表した世界の研究者10人に選ばれる。
◾️ビジネスの経験を武器にアカデミアの世界へ
人との出会いに導かれるまま、僕は2000年に慶應義塾大学へと移りました。ビジネスの最前線からアカデミアへの転身です。
東芝の事業部では、来る日も来る日も体を使って、同じ実験や検証を何百回と繰り返してきました。泥臭い作業の連続でしたが、現場で手を動かし続けたその経験は、僕の中に確かな直感を育ててくれていたんです。
さらに、かつて送り出してもらったバークレーで世界のトップレベルの研究手法を学び、海外の研究者たちとのネットワークも築いていました。ですから、いざ大学という新しい環境へ飛び込んだ瞬間、自分がどう動くべきか、その「泳ぎ方」はわかっていたのです。事業部の枠を外れ、「今度は自由に、好きな方向へ泳いでいいですよ」と、果てしない大海原を与えられたような感覚でした。
企業にいた時代は、実際の製品開発を通じて得た膨大なデータやノウハウといった「インプット」が山のように蓄積されていました。大学での研究は、それを学術的な知見として「アウトプット」していく作業です。現場のリアルな課題を知っている分、論文として解き明かしたいテーマが次々と湧き上がってくるんです。しかも、その知を探求するプロセスを、今度は若い学生たちと一緒に楽しむことができる。これは僕にとって、本当に胸が躍るような体験でした。
◾️半導体のオリンピック「ISSCC」への挑戦
学生たちと共に挑んだ最大の目標が、半導体集積回路のオリンピックと呼ばれる世界最高峰の学会「ISSCC(International Solid-State Circuits Conference)」でした。「今年は去年より多く発表しよう」と毎年計画を立て、20年間楽しく勝負を堪能し尽くしました。この最高峰の舞台に挑むにあたって、僕は「論文を書く」という作業に一切の妥協を許しませんでした。
学生が書いた原稿は、答えを書かずに真っ赤に添削して突き返します。何度もやり直させ、最後はそれを全部捨てて僕が一から書き直す。それを学生と徹夜でチェックして提出するんです。
特に図表の作成には執念を燃やし、線を1ミリ以下の単位で微調整し、太さまで変えました。「なぜそこまで細かく?」と不思議がっていた留学生も、卒業時には「細部を大切にする姿勢を学べました」と言ってくれました。お世辞かもしれませんけどね(笑)。
今なら生成AIで一瞬で作れる図解も、当時はすべて手作業です。しかし、そこまで徹底的に微調整を繰り返すのには明確な理由がありました。「どう描けば、相手に一瞬で伝わるか」という感性を磨くためです。
実はこれ、東芝時代に上司から「そのロジックは通じない」と突き返された経験の延長線上にあります。相手に合わせて論理や見せ方を徹底的に変える。あの痛烈な教訓が、論文の図表表現に活きていたんです。
僕が最初から自分で書いたほうが、作業としてはずっと早いです。それでもあえて突き返し、細かいフィードバックを繰り返したのは、そうしなければ学生が「伝える本質」を学べないからでした。
◾️世界最高峰の舞台で味わった「悔しさ」と「憧れ」
そこまで学生たちと本気で向き合って論文を仕上げても、ISSCCでは「絶対に受かる」と自信を持っていたものが不採用になることがあります。本気だった分、体が震えるほど悔しかったですね。
論文の選考では、世界中から集まった審査員が激しい議論を戦わせます。日本から出た他の方の論文を応援するため、反対派と激しい論争になることもあるのですが、相手を説得しきれず多数決で負けてしまう。自分の無力さに唇を噛む反面、彼らの理詰めの議論は本当に見事でした。
特にヨーロッパの研究者は、論の張り方が絶妙です。多様な専門家がそれぞれの立場を主張する中で、どう場をまとめれば自分たちを優位に導けるかという高度な交渉術を持っている。それに比べて自分はなんて幼稚なんだと痛感させられました。
ただ、僕には昔から「相手を打ち負かしたい」という激しいライバル心があまりないんです。打ちのめされた悔しさ以上に、「あんな風になりたい」という憧れが勝ってしまう。東芝時代の上司の美しい字や英語に憧れて無意識に真似ていたように、「すごいな」と思えば、相手の長所をただ素直に吸収したくなる性格なんですね。
同世代の仲間たちにも、素晴らしい才能を持つ方がたくさんいました。今や彼らは各組織のトップに立っていますが、僕は彼らに対しても競争心を燃やすより、ただ純粋にその優れた部分に憧れを抱き続けてきたのです。
◾️成功確率49対51の勝負。「d.lab」と「RaaS」の立ち上げ
素晴らしい才能を持つ仲間たちに憧れ、彼らから学び続けてきた僕に、やがて大きな転機が訪れます。2019年、東京大学から声がかかったのです。「日本の半導体を国を挙げて再構築する」、そんな機運が高まる中、当時の総長周辺で僕の名前が挙がったようでした。
相変わらず、僕は期待された場所へ何の躊躇もなく飛び込みました。ところが「何をするのか」と尋ねると、「それはお前が考えろ」と。大きな目標だけを与えられ、具体的な施策はすべて白紙。そこからまた、どうすべきか眠れない日々が続きました。
そして導き出した答えが、半導体の設計研究センター「d.lab」と先端システム技術研究組合「RaaS(ラース)」の立ち上げです。多くの人が集い情報交換するオープンな「d.lab」と、少数精鋭が資金を持ち寄り機密性の高い研究開発を行うクローズドな「RaaS」。まったく異なる戦略の二つの組織を、同時に機能させる構想でした。
この構想を実現するため、僕は各企業の技術トップに一人ずつ会いに行きました。構想を説明して賛同を求め、資金の交渉をして駆けずり回ったのです。組織が出来上がるまでの約1年間は、どう乗り越えたか思い出せないほどの忙しさでした。
皆さんの支えがあったとはいえ、成功確率が「49対51」というような、常に際どい勝負の連続です。誰にも相談できず、一人で重い判断を下す孤独な時期もありました。それでも、いざ組織が立ち上がると「いい場所ができた」と、どんどん人が集まってきてくれた。それが涙が出るほど嬉しかったですね。
現在の僕の仕事は、「ぜひやりたい」と賛同してくれる方々を集め、一緒に走ることです。際どい勝負の連続でも、期待された場所に飛び込み、夢中でやり続ける。振り返ってみれば、僕はずっとそうやって道を歩んできたのだと思います。
>>第4回に続きます。
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取材:榎並大輔、関真希
執筆・編集:君和田郁弥(balubo)
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