#02【黒田忠広】僕の人生は、いつも“人”に動かされてきた

黒田忠広
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世界を動かす半導体産業。その最前線を牽引してきたトップランナーたちは、どんな選択と決断を重ねてきたのか──。知られざる半生に迫る連載企画、「Silicon is my life」。
 
今回話を聞いたのは、18年以上にわたり東芝で半導体集積回路の設計に携わったのち、アカデミアの世界へ転身した黒田忠広氏だ。現在は東京大学で「d.lab」や「RaaS」などの拠点を率いるほか、熊本県立大学理事長に就任するなど、ビジネスとアカデミアの視点から日本の半導体産業再興の旗振り役を担っている。
 
日本の半導体が世界を席巻した熱狂の時代、そして業界の浮き沈みを経験し、いまは「次世代の育成」という次なる挑戦へと向かう黒田氏のキャリアヒストリーに迫る。(全4回)

(プロフィール)
熊本県立大学理事長/東京大学特別教授
黒田忠広

東京大学卒業。東芝研究員、慶應義塾大学教授、カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)MacKay Professorを歴任。現在、東京大学特別教授、熊本県立大学理事長、慶應義塾大学名誉教授。米国電気電子学会と電子情報通信学会のフェロー。「半導体のオリンピック」と称される国際会議ISSCCで、60年間に最も多くの論文を発表した世界の研究者10人に選ばれる。

◾️手書きの回路設計と、SPICEとの出会い

先生の勧めで東芝に入社した僕は、少し変わったキャリアを歩み始めました。

当時の大企業は「研究所で成果を出してから事業部へ移る」のが一般的でしたが、僕は逆でした。事業部の最前線で製品開発からスタートし、後から研究者になりました。

これも自分で希望したわけではありません。周囲が僕の職人的な性格を周囲が見抜き、長期的な研究よりも、まずはひたすら手を動かす実践の現場へ配属してくれたのでしょう。

事業部では、来る日も来る日も回路設計に明け暮れました。当時はまだ設計にコンピューターがなく、大きなA0サイズの紙に定規で線を引いて図面を描きます。

そんな日々の中で、僕がすっかりハマってしまったのが、カリフォルニア大学バークレー校が開発した「SPICE(スパイス)」という電子回路のシミュレーターです。

当時のコンピューターは巨大なメインフレームで、データの入力には穴を開けた「パンチカード」を使います。「これがお札だったらな」なんて思いながらカードの束を機械に入れ、長い順番待ちを経てようやく結果が印刷される。出てきた長い紙を広げ、印字されたマークをペンで結んで、やっと電気信号の波形が見える。そんな時代でしたが、これがたまらなく面白かったんです。

◾️SPICEが育ててくれた「頭の中のシミュレーター」

SPICEの何が面白かったかといえば、「思った通りに動かないこと」でした。

エラーで計算が途中で止まるのが悔しくて、工夫を重ねて少しずつ先へ進めていく。来る日も来る日も格闘するうちに、僕の中で面白い変化が起きました。回路図を見ただけで「この入力なら、こう出力される」と瞬時に予測できるようになったんです。

何時間もかけて大型コンピューターが弾き出す答えが、自分の頭の中で先に見える。まさにSPICEが「頭の中のシミュレーター」として定着した感覚でした。「回路の動作は誰に教わったか」と聞かれれば、僕は迷わず「SPICEに教わった」と答えます。

ただ、後年になって管理職になると、自分で手を動かす機会がすっかり減ってしまいました。若い頃は出張中の飛行機でも夢中でシミュレーターを回していたのに、ワインが飲める良い席に座るようになると、つい映画を見てしまう(笑)。気がついた頃には、あの研ぎ澄まされた直感は頭から抜け落ちていました。

今から思うと、本当にもったいないことをしました。ワインと映画を楽しむ時間よりも、回路図を見て「こう動かしたいなら、ここを直せばいい」と直感的にわかるあの能力のほうが、僕にとってはるかに貴重なものでした。

◾️海外で知った「世界に通用するロジック」の壁

僕がそんな「直感」を武器に設計に没頭していた20代の頃は、まさに日本の半導体が世界市場の半分を占める黄金期でした。

当時、はじめての海外出張に恵まれた時のことです。上司の随行でIBMやGEの副社長クラスと面会しました。20歳以上も年上のエキスパートたちに囲まれ、端っこにポツンと座るだけの僕。アメリカの会議室で出たケータリングの取り方の作法も知らない「田舎者」には、すべてが新鮮でした。

やがて東芝が「DRAM(ディーラム)」で世界一になると、海外からの視察客がひっきりなしに訪れるようになります。「次のメモリはどう進化する?」と問う彼らの相手を、なんと20代の僕が任されていました。「もう少し速く動くと思いますよ」と、例の頭の中のシミュレーターによる「直感」だけで偉そうに答えていたのだから、すごい時代です(笑)。

しかし、インテルの幹部に英語でプレゼンをした時、ついに大きな壁にぶつかります。自分では完璧に説明したつもりだったのに、同席した上司から「それでは相手に通じない。お前のロジックではダメだ」と厳しく指摘されたのです。

「自分には見えている直感」を並べるだけでは、世界のエグゼクティブには通用しません。彼らが求める「客観的な事実から結論に至る手順」や「合意の導き方」が、僕にはまったく分かっていませんでした。

この時のショックは大きく、以来僕は「相手に合わせた説明の順番」や「論理の組み立て方」を考え続けるようになりました。自分の直感を、いかにして誰にでも伝わるロジックに変換するか。この長年の訓練こそが、今の僕が周囲から「話が分かりやすい」と言っていただける土台になっているのだと思います。

◾️人との「出会い」が人生を導いてくれた

そもそも「人に伝えるロジック」の重要性を痛感するきっかけをくれたのは、僕の人生を変えた東芝時代の上司でした。その上司は僕をカリフォルニア大学バークレー校へ送り出し、後に東大教授となる桜井貴康先生と引き合わせてくれました。ここから僕の研究者としての歩みが始まります。

実のところ、僕は当初「研究」というものに懐疑的でした。論文を読んでも「回路図を見れば直感で動作がわかるのに、なぜわざわざ回りくどい説明をするのか」と思っていたからです。

しかし、桜井先生は数学を駆使して回路の本質を誰にでも分かるように記述する天才でした。「自分が見て直感でわかる」だけでは、人には伝わりません。先ほどのインテルでの経験と同じで、ここではじめて「人に論理的に説明する意味」が腑に落ちたのです。

改めて振り返ってみると、僕はこれまで自分で「この道に進みたい」と進路を決めたことがありません。周りの恩人たちが「あっちへ行ってみろ」と導いてくれ、僕はその新しい環境に適応し、面白さを見つけることだけが得意でした。

大学へ移籍する話が来た時も、最初は「まだ東芝でやりたいことがある」と渋っていたのに、一週間もすれば「それも面白そうだな」と心変わりしてしまう。それが僕の性格なんです。

東芝を辞める時、恩人である上司に挨拶へ行くと「まさか、お前が会社を辞めるとは」とひどく驚かれました。僕ほど目の前の仕事に従順な人間はいないと思っていたのでしょうね(笑)。

それでも最後は温かく送り出してくれました。僕の人生において一番大きかったのは、やはり「人との出会い」です。素晴らしい方々が新しい道へ導いてくださり、僕はただ素直に、夢中になってその道を走り続けてきた。その幸運な出会いの連続が、今の僕をここまで連れてきてくれたのだと思います。

>>第3回に続きます。

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取材:榎並大輔、関真希
執筆・編集:君和田郁弥(balubo)
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