
世界を動かす半導体産業。その最前線を牽引してきたトップランナーたちは、どんな選択と決断を重ねてきたのか──。知られざる半生に迫る連載企画、「Silicon is my life」。
今回話を聞いたのは、日立製作所で半導体デバイス研究の最前線に立ち、1993年に世界初の室温動作「単一電子メモリ」を開発した矢野和男氏だ。現在は日立製作所フェローとしてAIやデータ活用の研究を牽引するほか、「人間の幸福」をテクノロジーで増幅する株式会社ハピネスプラネットを率いている。
日立の半導体事業の再編を機にデータ・AI領域へと転身し、60歳で起業。常に「世界基準」で勝負し続ける矢野氏のキャリアヒストリーに迫る。(全4回)
(プロフィール)
株式会社日立製作所フェロー / 株式会社ハピネスプラネット代表取締役CEO
矢野和男
1984年、早稲田大学大学院理工学研究科物理学専攻修士課程修了後、株式会社日立製作所に入社。中央研究所にて半導体デバイス物理学の研究に従事し、1993年に世界初の室温動作単一電子メモリの開発に成功。IEEE Paul Rappaport Best Paper Award、IEEE ISSCC Lewis Winner Outstanding Paper Awardなど数々の国際賞を受賞。2004年よりウェアラブルセンサーとビッグデータ活用技術の研究を推進し、日立28万人の中で唯一のフェローに就任。2020年、株式会社ハピネスプラネットを設立し、代表取締役CEOとして自己成長型AI「FIRA」の開発を手がける。
コーポレートサイト:https://happiness-planet.org/
Happiness Planet FIRAサービスサイト:https://happiness-planet.org/service/fira/
◾️世界初の「室温動作」誕生の裏側
世界で勝負しない仕事には意味がない──。そんな空気の中でもがきながら研究に没頭していた、1990年代前半のことです。
当時、半導体の世界で大きな注目を集めていたのが「単一電子デバイス」という技術でした。従来のメモリは、情報を一つ記憶するのに何万個もの電子を動かす必要があります。
それを究極まで減らして、電子をたった1個だけ動かすことで記憶を行う。実現すれば、極限まで小さく、ほとんど電力を使わないメモリが作れる。「次世代の技術」として、世界中の研究者がしのぎを削っていました。
ただ、そこに立ちはだかっていたのが「温度」の壁でした。電子1個というのは、極めて小さな存在です。室温の環境では、周囲の熱エネルギーに揺さぶられて電子が暴れてしまい、狙った場所にとどめておくことができません。
だから当時の研究は、マイナス270度という超極低温まで冷やして、いわば「無風状態」を作り出すことでしか成立しませんでした。しかしそのためには巨大な冷凍装置が必要で、とても実用化できるものではなかった。
では、冷やさずに、普通の室温で電子を閉じ込めるにはどうすればいいか。理論上の答えははっきりしていました。「閉じ込める箱を、極限まで小さくすればいい」のです。箱が小さければ小さいほど、熱に揺さぶられても電子は外に飛び出しにくくなるからです。
そこで私は、専門家にお願いして、シリコンの非常に薄い膜を作ってもらいました。原子がわずか10層ほど、厚さにして1〜2ナノメートル。この薄膜の中に、電子を閉じ込められるナノサイズの構造を作ろうとしたのです。
ただ、実を言うと、この時の私の仮説は間違っていました。
私は「薄い膜の端にできる細い線状の構造に、電子が閉じ込められる」と考えていたんです。しかし実際に膜を作ってみると、予想外のことが起きました。
膜は均一にならず、ナノサイズの「粒」がゴツゴツと連なる多結晶になっていました。驚くことに、この「粒」の一つひとつが、電子を閉じ込める極小の箱として機能していたのです。電子が粒から粒へ1個ずつポンポンと飛び移っていく。その量子力学的な動きが、なんと室温ではっきりと観測できたんです。
こうして1993年、世界初の室温動作「単一電子メモリ※」が誕生しました。
ワシントンで開かれた国際学会(IEDM)で発表すると、翌日のニューヨーク・タイムズ紙で大きく報じられ、アメリカの大手電話電信会社AT&Tのベル研究所にも招かれました。その後、国際的な賞も複数いただくことになります。
※単一電子メモリ:電子1個の出入りを制御することで情報を記憶する、極微小・超低消費電力のメモリデバイス。矢野氏は1993年に世界で初めて室温での動作に成功した。
◾️20年間心血を注いだ領域が、会社から消えた
1993年に世界初を成し遂げた後も研究に没頭していましたが、1990年代後半から2000年代初頭にかけて、日本の半導体産業全体が激動の時代を迎えていました。いわゆる「日の丸半導体」の歴史的な再編期です。
日立もその渦中にありました。1999年にDRAM事業をNECと統合して「エルピーダメモリ」を設立。さらに2003年には、システムLSI事業を三菱電機と統合し、「ルネサステクノロジ(現・ルネサスエレクトロニクス)」として独立させました。20年間、日立の中核だった半導体が、段階的に会社の外へ切り出されていったのです。
私はちょうどそのタイミングで部長になったばかりでした。新任部長としての最初の大きな仕事が、まさか部下たちの去就に関わることだったんです。

日立の研究所に残る人たちに、どうやって次の仕事を作るか。外へ出ていく事業部やエルピーダと、今後どういう関係を築いていくか。研究の最前線から一転して、会社と個人の運命を分けるような判断を迫られる立場になりました。
20年間心血を注いだ半導体という領域が、自分の会社から消える。これは個人的にも大きな出来事でした。
ただ、半導体の時代を通じて、低温デバイスに始まり、プロセッサー、不揮発性メモリ、スーパーコンピューター用のCADまで、どの分野でも世界トップレベルの仕事をしてきたという自負はありました。だから、半導体に限る必要はない。別のことをやっても同じようにできるんじゃないかという、根拠のない自信はあったんです。
◾️「サックス」から学んだ一つに閉じない大切さ
半導体から離れて新しいフィールドに移った時、「考え方を大きく変える必要があったのではないか」とよく聞かれます。でも実は、私のベースにはずっと「理論物理」というルーツがあるので、対象が変わっただけで、思考の根幹を変える必要はなかったんです。
むしろ、私が大切にしてきたのは「特定の分野にこだわらない」という感覚のほうです。
その原体験は大学時代にあります。当時、私はジャズバンドでサックスを吹いていました。でも、自分を「サックス吹き」だと思い込んでいたんです。
ある時、後から入ってきた後輩に、ものすごくできる人がいましてね。ギターも弾くし、ドラムも叩くし、サックスも上手いし、ピアノも弾く。さらには作曲もアレンジもできる。彼は特定の楽器に縛られることなく、純粋に「音楽そのもの」を表現していたんです。
この人には絶対に敵わないと思った時に気づきました。自分がダメだったのは、腕の問題じゃなくて、「サックス屋」という枠の中に自分を閉じ込めていたからだったんだと。この経験が、研究者としての私のスタンスにも深く影響しています。
30歳前後からドラッカーやマイケル・ポーターの経営書を読み始めていたのも、半導体の研究者が経営を学ぶのは場違いだとは思わなかったからです。自分を「半導体屋」だと定義してしまったら、あのサックスの二の舞になる。「一つの専門分野の中だけで生きる」という発想は、私には最初からありませんでした。
◾️「データ」という答えにたどり着いた理由
そうして2004年から、私はウェアラブルとビッグデータ活用技術の推進へと本格的に舵を切りました。なぜ、次のフィールドに「データ」を選んだのか。
日立には、鉄道、水、工場、金融、エネルギーなど、数兆円規模の幅広い事業があります。この全方位の事業に対して、たとえ1%でもレバレッジをかけられる技術があれば、そのインパクトは計り知れない。特定の産業に特化するのではなく、あらゆる分野に横断的に適用できる「普遍的なもの」は何か。その答えが「データ」だったんです。
しかも、理論物理とデータ・AIは、実は驚くほど近い領域なんです。どちらも「膨大な現象の中からパターンを見つけ出し、シンプルなモデルにして未来を予測する」ことをやっている。対象が自然現象か社会のデータかの違いだけで、根幹は同じです。
実際に使っている数学もほとんど重なっていて、AIで使われている手法の多くはもともと物理学の世界で生まれたものなんですよ。AIのパイオニア的な研究者に理論物理出身が多いのも、偶然ではないでしょう。
だから私にとって、半導体からデータ・AIへの転身は、世間が思うほど畑違いの領域へのジャンプではなかったのです。
>>第3回に続きます。
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取材:榎並大輔、関真希
執筆・編集:君和田郁弥(balubo)
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