#02 【竹内健】来る日も来る日も「ボタンを押す係」。泥臭い下積みから生まれた世界初のフラッシュメモリ

SEMICON IS MY LIFE
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Portrait of a man in a cream shirt gesturing, with slide text: 'Silicon is my life ~半導体こそ我が人生~' and '竹内 健 氏 東京大学大学院工学系研究科 教授 #02'

世界を動かす半導体産業。その最前線を牽引してきたトップランナーたちは、どんな選択と決断を重ねてきたのか。知られざる半生に迫る連載企画、「Silicon is my life」。

今回話を聞いたのは、東芝でNANDフラッシュメモリの研究開発に従事し、世界初の64Mビットから16Gビットに至るNANDフラッシュメモリの商品化に成功した竹内健氏だ。スタンフォード大学でMBAを取得後、東京大学准教授、中央大学教授を経て、現在は東京大学大学院工学系研究科教授として「Computation in Memory(CiM)」の研究を牽引している。

産業界の最前線で半導体の革新に挑んだのち、アカデミアへ転身。常に自分が変化できる場所を求め、技術とビジネス、そしてアカデミアの世界を越境してきた竹内氏のキャリアヒストリーに迫る。(全4回)

(プロフィール)
東京大学大学院工学系研究科 教授
竹内健
1993年、東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻修士課程修了後、株式会社東芝入社。NANDフラッシュメモリの研究開発に従事し、世界初の64Mビット〜16Gビットに至るNANDフラッシュメモリの商品化に成功。マルチレベルセル技術の基礎を築き、現在もすべてのNANDフラッシュ製品に採用されている。2003年スタンフォード大学経営大学院修了(MBA)。2007年東京大学大学院工学系研究科准教授、中央大学理工学部教授を経て、現職。脳型データセントリックコンピューティングおよびComputation in Memory(CiM)の研究を牽引する。著書に『世界で勝負する仕事術』(幻冬舎新書)など。

◾️のんびり研究する余裕はない。最前線で「不良解析」に明け暮れた日々

そんな「黄色信号」が点滅する厳しい状況からスタートしたわけですが、僕が配属されたフラッシュメモリ部門もまた、社内で非常に危うい立ち位置にありました。

僕が入社した当時、フラッシュメモリは黒字化まで10年以上かかると言われる東芝の「新規事業」でした。会社の業績が悪化する中、まだ利益を出せない新規事業への風当たりは強く、常に「いつ打ち切られてもおかしくない」というプレッシャーがかかっていたんです。

本来、僕は基礎研究を担うRDC(研究開発センター) ※1 に配属されたはずなのですが、実態はフラッシュ事業部への「応援要員」。入社直後の仕事は最先端の研究などではなく、ひたすら「不良解析」でした。

※1 RDC(研究開発センター):当時の東芝で、全社の中核研究を担っていた基礎研究部門。事業部とは独立した位置づけで、長期的な技術開発を担う組織として知られている。

回路がまだ分からない新入りの僕に与えられたのは、ショートして光る回路を暗箱の中で撮影する仕事です。不具合の場所を特定して回路を修正するのは先輩の役割で、僕は毎日ひたすらカメラの「ボタンを押す係」でした。

さらに、猛追してくる他社製品の回路解析も任されました。何層にも重なるチップの配線を、一層ずつエッチングで溶かしては撮影し、回路の構造を読み解いていく。今なら専門の調査会社に依頼するような地道な解析作業を、当時は自分たちの手でやるしかなかったのです。

Close-up of a blue computer motherboard with surface-mount components, including two large inductors marked 100 and numerous resistors and capacitors.

「最初の製品が立ち上がらなければ事業ごと終わる」という背水の陣で、のんびり研究をしている余裕はありません。本当なら若手として基礎から育ててもらう時期なのに、いきなり目の前の最前線に駆り出される。

僕らはこの状況を自嘲気味に「学徒動員」と呼んでいました。ただ、同じ境遇の同期たちとは自然と結束が固くなりました。「思い描いていた研究生活とずいぶん違うよな」と、お互いに励まし合いながら苦労を分かち合っていましたね。

◾️下働きから抜け出すための直訴。新規事業の苦悩と「世界初」の矜持

この「学徒動員」のような状況から抜け出すには、「こんな新しい回路を設計したい」と自ら研究テーマを提案するしかありませんでした。教育を待っていても下働きのままです。上司に必死でアイデアを売り込み、ようやく研究らしい仕事を任せてもらえるようになりました。

その甲斐あって本来の研究所に戻り、先輩と一緒に開発したのが「マルチレベルセル(MLC) ※2 というフラッシュメモリの基礎技術です。

※2 マルチレベルセル(MLC):1つのメモリセルに複数ビットの情報を保存する技術。1セルあたりの容量を2倍、3倍と増やせるため、フラッシュメモリの大容量化と低コスト化を実現した中核技術。スマートフォン、SSD、データセンターなど現代のあらゆる記憶装置で活用されている。

通常、一つのセルは「1ビット」しか記憶できませんが、そこに2ビット、3ビットと記憶させて容量を倍増させるこの仕組みは、今や世界中のフラッシュメモリで使われる必須技術になりました。

しかし、画期的な技術が生まれても新規事業の苦悩は続きます。黒字化するまでは利益を消費する側ですから、メイン事業の部署から冷ややかな目で見られるのはある意味で仕方のないこと。そこをサバイバルするのは本当に大変でした。

ただ一つの救いは、社外からの高い評価でした。当時、フラッシュメモリを本気で研究していたのは東芝とサムスンくらいで、誰も手をつけていない未開拓の分野だったのです。

そのため、私たちが生み出す成果はほとんどすべてが「世界初」となり、学会で論文を発表するたびに世界中から高く評価されました。社内での肩身は狭くても、世界に通用する成果を出せているという自信があったのです。

今の時代でも同じだと思いますが、世間から注目を集める新しい技術ほど、実際の現場は泥臭くて厳しいものです。それでも、その泥臭さの中に世界を変える芽が確かに育っているという実感が、当時の僕らを支えていたのです。

◾️デジタル時代の到来と、フラッシュメモリが社会を変えた瞬間

社内では厳しい目が向けられていたフラッシュメモリ事業ですが、そもそもあの苦しい時期に、東芝の経営陣が事業を切り捨てなかったことには今でも感謝しています。

資金難の中、サムスンとの共同開発やサンディスクとの四日市工場の共同運営など、あの手この手で事業を生き延びさせてくれました。

そうして何とか持ちこたえながら技術を磨き続けているうちに、ついに時代が大きく動くタイミングが訪れます。僕らが泥臭く開発を続けてきたフラッシュメモリが、突如として世界中で爆発的に売れ始めたのです。

なぜ、長年日の目を見なかった事業が一気に飛躍を遂げられたのか。最大の理由は、僕らの技術開発が実を結ぶタイミングと、「新しい市場の立ち上がり」が見事に重なったことです。技術は市場に牽引されて初めて前に進みます。その最初の火付け役が、カシオの「QV-10」※3をはじめとするデジタルカメラでした。

※3 カシオQV-10:1995年にカシオ計算機が発売した、世界初の液晶モニター付きデジタルカメラ。撮影画像をその場で確認できる仕組みで爆発的なヒットとなり、その後のデジタルカメラ市場の幕開けを告げた製品とされる。

デジカメは、イメージセンサー、液晶ディスプレイ、プロセッサー、そして「メモリ」が揃って成立します。振動で壊れやすいハードディスクや、電源を切るとデータが消えるDRAMに対し、「電源を切ってもデータを保持できる携帯メモリ」であるフラッシュメモリはまさにうってつけだったのです。

その後、MP3プレイヤーからiPod、スマートフォンへとデジタル機器が進化するにつれ、需要はさらに桁違いに拡大していきました。

ここで大きかったのが、スティーブ・ジョブズという「技術を最終製品に昇華させる天才」の存在です。彼らが作ったブームが世界中を巻き込んだからこそ、フラッシュメモリは社会インフラになりました。今のキオクシア ※4 の時価総額も、現在のAIブームも、このメモリなしでは成立しません。

※4 キオクシア:旧東芝メモリ。2018年に東芝の半導体メモリ事業が分社化されて発足し、2019年に現社名へ変更。NANDフラッシュメモリで世界トップクラスのシェアを持ち、2024年12月に東京証券取引所プライム市場へ上場した。

当時、僕が尊敬していた上司がこんなことを言っていました。

「ジョブズのような天才が、世界のどこに潜んでいるかは分からない。だからこそ、彼らが凄いアイデアを思いつくような『土台(技術)』を、我々が先に作っておかなければいけないんだ」と。

「今、市場がないから」と諦めるのではなく、未来の天才を刺激する技術を作って、新しい市場そのものを生み出していく。本当に先を見据えた、すごい先見の明を持った上司だったと今でも思います。

Biography cover'Steve Jobs by Walter Isaacson' next to a silver iPhone on a wooden shelf.

◾️スタンフォードMBAへ。技術者の枠を越える決断

こうした経験を重ねるうちに、僕は「技術はビジネスにおいて重要なピースだが、あくまで一部に過ぎない」と痛感するようになりました。

技術だけを磨いていても、いずれDRAMのように海外勢に追い上げられてしまう。それなら、ビジネスを動かす側にも軸足を置きたいと考えたのです。

もう一つの理由は、会社の現場にも本物の「天才」がいたことでした。MLCを一緒に開発した先輩も非常に頭が切れ、「大学の天才たちを避けて企業に来たのに、ここも天才だらけじゃないか」と(笑)。

自分は一つの技術を極めるより、全体を俯瞰するバランス型の人間。それなら純粋な技術勝負は避け、ビジネスの知見を掛け合わせて勝負しようと考えました。

そこで2003年に、スタンフォード大学へのMBA留学を決断します。

当時は技術者がMBAに行く前例が乏しく、さらに「社費留学した社員が帰国直後に辞める」というトラブルが社会問題化し、企業が留学費用の返還裁判を起こすような時代でした。

当然、僕が言い出した時も「こんな時期に何を言っているんだ」と反対する人もいましたが、それでも、僕のために社内を必死に説得してくれた恩人がいて、なんとか特例で送り出してもらえたのです。

>>第3回:4〜5年周期で新たな領域へ。「軸足」を残しながら越境し続ける流儀

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取材:榎並⼤輔、君和田 郁弥(balubo)
執筆・編集:君和田 郁弥(balubo)
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