#02【日髙秀人】特許・論文・英語。世界で戦うために若手時代に磨いた「3つの武器」

日髙秀人

日髙秀人

· 22026.09.11
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世界を動かす半導体産業。その最前線を牽引してきたトップランナーたちは、どんな選択と決断を重ねてきたのか──。知られざる半生に迫る連載企画、「Silicon is my life」。

今回話を聞いたのは、三菱電機で先端DRAMの設計に携わり、後にルネサス エレクトロニクスの初代CTOを務めた日髙秀人氏だ。現在は文部科学省「次世代X-nics半導体創生拠点形成事業」のプログラムディレクターとして、2035〜2040年の半導体を見据えた10年規模の国家プロジェクトの舵取りを担っている。

40年以上にわたり、業界の第一線に立ち続けてきた日髙氏。第2回は、DRAM黄金期の現場の熱気や、若手時代に磨いた「3つの武器」、そして自身のキャリアを振り返って語る「最大の失敗」に迫る。(全4回)

文部科学省「次世代X-nics半導体創生拠点形成事業」プログラムディレクタ / 元ルネサス エレクトロニクス CTO・フェロー
日髙秀人
1983年、東京大学大学院工学系研究科修士課程を修了後、三菱電機株式会社に入社。LSI研究所で先端DRAMの研究開発に従事し、6世代にわたる製品化を手がける。1987年から88年にかけてMITメディアラボの客員研究員。三菱電機在籍の最終年にマイコン事業部へ移り、2003年発足のルネサス テクノロジではマイコン用混載フラッシュメモリの開発を率いて、世界トップシェア製品の技術基盤を築いた。北伊丹事業所長を経て、2015年にルネサス エレクトロニクス初代CTOに就任。同社フェローを務め、2024年末に退職した。ISSCC 2012 プログラムチェア、2017年 IEEE Fellow。現在は文部科学省「次世代X-nics半導体創生拠点形成事業」プログラムディレクター、JST「次世代エッジAI半導体研究開発事業」アドバイザーなどを務める。工学博士。

日本半導体産業の黄金期。DRAM「ゴールドラッシュ」の渦中で

あえて王道の真ん中を行くより、少し違う立ち位置から挑んでみたい。そんな思いで私が三菱電機に入社したのは、1983年のことです。

当時は、まさに日本半導体産業の黄金期でした。DRAM※1を筆頭に、市場全体が「ゴールドラッシュ」に湧いていた時代です。ブームに惹かれて集まってきた人も多く、熱気が去ると同時に去っていった人も大勢いました。

※1 DRAM (Dynamic Random Access Memory):コンピューターの主記憶に使われる半導体メモリ。1980年代には日本メーカーが世界市場の過半数を占め、半導体産業の主戦場となった。

しかし、当時の私は自分が巨大なバブルの渦中にいることすら認識していませんでした。流行り廃りとは無関係に専門を選び、流れのままに会社を選んだつもりでしたから、一儲けしてやろうという意識はまったくなかったのです。

この「無頓着さ」が自分にとってはプラスに働きました。ブームに浮き足立つことなく、もともとやりたかった「地道に技術を開発し、製品として社会に届ける」という仕事に、最初の10年間はじっくりと没頭できたからです。

手がけたものがすべて「製品」に。現場で培った手触り感とリーダーシップ

では、具体的にどんな仕事をしていたのか。私が担当していたのは、DRAMの先端世代の研究開発です。新しい世代の「一発目の製品」を世に出すところまでが主な仕事でした。

それを6世代ほど続けました。ですから、自分が手がけたものはすべて製品になっていくわけです。あの手触りを得られたことは、その後の研究開発と事業を総合的にリードする立場においても本当に良かったと思います。

この時期、もう一つキャリアにおいて大きかったのが「他社との研究開発協業」でした。当時、日米の同業2社と三菱電機によるDRAMの共同開発プロジェクトが立ち上がり、私も関わることになりました。

1年ほど、他社の中央研究所の中で勤務しました。他社の人たちと協業する中で、まず第一に大事だと学んだのが「リーダーシップ」でした。これはその後、社内にとどまらず、対外的なプロジェクトを進めるうえでも、あらゆる場面で効いてきます。非常に大きな経験になりました。

また、1987年から88年にかけては、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボに客員研究員として滞在しました。ちょうど第2次AIブームの時期で、AIがとても身近にあったんです。

マービン・ミンスキー※2 やシーモア・パパートといった人工知能の巨匠たちが、すぐ近くのオフィスにいるような環境でした。いま読み返すと、ミンスキーの『心の社会』(1986年 産業図書)などは、その後に第3次を経て第4次AI発展期に入った現在の趨勢であるAIエージェントを予言していたようにさえ見えます。

※2 マービン・ミンスキー(1927〜2016):人工知能研究の草分けとして知られる計算機科学者。MIT人工知能研究所の共同創設者。1986年の著書『心の社会(The Society of Mind)』では、知能を多数の単純な要素の相互作用として捉える理論を展開した。

MIT教授の利根川進先生がノーベル賞を受賞された年でもあり、間近で世界的活躍をされる人々が眩しく見えたことも強い印象に残っています。

このように多様な経験をする中でも、振り返ってみて強く感じるのは、自分でチップ設計・開発を手がけ、製品として世の中に出すという経験自体がいかに希少で恵まれたものだったかということです。

私の若い頃は、周りにそういうエンジニアがたくさんいました。現在では業界の構造も大きく変わり、アカデミアの世界も含めて、実製品の手触りを持つ人がどうしても少なくなっています。その変化の大きさを、最近になって改めて実感することがよくあります。

特許・論文・英語。世界で戦うために若手時代に磨いた「3つの武器」

現場での製品開発に没頭する一方で、若い頃、職業人として目標に定めていたことがありました。

自分のスキルを磨き、自信を持てるようにしたいと考えた3つの武器。それが「特許出願」「論文の発表」、そして「英語」です。

この3つは、研究開発に携わる職業人として大切な強みになると考えていました。特許は、固有の技術を自分なりのアイデアで組み立てるもの。論文は、それを実証し普遍的な形で世の中に知らしめるもの。そして英語は、その論文を世界へ普及させ、共有するための手段です。つまり、この3つは連続して回っていくんですね。

英語について、高校時代の経験を紹介すると、当時、大学入試向けの英日・日英翻訳中心の英語教育を「つまらないな」と感じていた私に、高校の先生が「図書館に行って、Oxford English Dictionary※3を見てみろ」と声をかけてくれたんです。

※3 Oxford English Dictionary:オックスフォード大学出版局が刊行する英語辞典。各単語について、初出しの用例から現代までの意味の変遷を引用付きで記述する歴史主義的な編纂方針で知られ、全20巻におよぶ。

実際に開いてみて、驚きました。単なる訳語のリストだと思っていた辞書に、ある言葉がどう生まれ、どう意味を変えてきたのかという「歴史」が丸ごと詰まっていたからです。

そこで先生が教えてくれたのは、英語という言語の奥深さでした。日本語は明治時代に言葉づかいが大きく変わり、言文一致体や漢字かな混じり文になりましたが、英語にはそうした断絶や意図的な不連続がなく、古い言葉がそのまま現代につながっているというのです。

単なる暗記ではなく、言葉の歴史を学ぶ。そう視点が変わったことで、勉強へのモチベーションが湧きました。決して英語が大好きになったわけではありませんが、「背景を知る面白さ」が私を支えてくれたのです。

ここで磨いた3つの武器は、のちに私が海外の商談や国際学会の仕事に関わっていくうえで、大きな力となりました。


cap国際学会IEEE ICDにて基調講演する様子

最大の失敗は「新分野探索より専門領域の優先」。深化にこだわった若手時代の後悔

こうしてキャリアについてお話しする機会があると、若手時代の失敗談をよく聞かれます。

客観的には、私の最大の失敗と言えるのは、おそらく「失敗を失敗だと思ってこなかったこと」そのものなんです。

もちろん、日常的な業務上のミスなら数限りなくあります。設計ミスで回路の原版を作り直す「マスクリビジョン※4」を増やしてしまったことなど、一度や二度ではありません。しかし、私はそれすらも失敗だとは思っていませんでした。

※4 マスクリビジョン:半導体の製造に使う回路パターンの原版(マスク)を、設計ミスなどのために作り直すこと。やり直しには相応の費用と時間がかかる。

人から見れば失敗に映るような出来事も、自分の中では単なる「経験」の一つにすぎません。成功だ、失敗だというのは、他人が外側から勝手に貼ったラベルです。私はそうした表面的な評価には振り回されず、その裏にある「経験としての価値」を客観的に見つめるようにしてきました。

どんな経験であれ、人生のなかでいつか必ず役に立つ。若い頃からそう意識していたからこそ、日々の出来事をすべて前向きな糧として受け止めてきたのです。

これとは逆に、いま振り返ると「失敗だった」と悔やんでいることはあります。それは、自身の専門領域を極めることに没頭するあまり、新しい領域へと積極的に手を伸ばさなかったことです。

仕事には、一つのテーマを深掘りする「深化」と、新しい領域を切り拓く「探索」の両面が必要です。一時期の私はそのバランスを欠き、完全に「深化」へと偏ってしまっていたのです。深化の先にこそ未来があると考えていたこともあります。

若い頃から幅広い視野を持つというのは、誰にとっても簡単なことではありません。それでも、もう少し早い段階で意識的に自分の世界を広げていれば、だいぶ人生が違っていたのではないかと思うのです。

小さなミスを恐れず、一つの専門を深掘りできたのは私の強みでした。しかしその裏側で、新しい領域へ踏み出すチャンスを逃していた。大局的に見れば、それこそが私にとっての最大の失敗だったと感じています。これは、大きな領域転換を強制される転機に出会わなかったことも原因であり、ある意味で幸せなことだとは思うのですが。

そんな私が、三菱電機での最終年に、それまで歩んできた単体メモリの世界を離れてマイコン事業部へ移ることになります。そして翌年の2003年、ルネサス テクノロジが発足しました。

>>第3回に続きます。

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取材:榎並⼤輔、野木村 修
執筆・編集:君和田 郁弥(balubo)
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