
── 丹波の陸上少年が、imecで過ごした10年
ハイブリッド接合をはじめとする半導体の3次元実装・後工程の研究で、いま産業界から熱い視線を集める研究者がいる。横浜国立大学 総合学術高等研究院の井上史大(いのうえ・ふみひろ)教授だ。ベルギーの半導体研究機関imecで約10年を過ごし、帰国後は100社を超える企業が集う「3DHI」を率いる。華々しい経歴に見えるが、その出発点はネットで見つけたインターンシップ募集に、たまたま応募したことだった。前編では、関西で育った青年が単身ベルギーへ渡り、自らの居場所を切り開いていくまでをたどる。
兵庫・丹波の陸上少年と、ものづくりの原体験
「よく横浜の人だと思われるんですけど、実はずっと関西なんです」。井上の出身は兵庫県丹波市。父は電力会社に勤めながら週末は畑に出る、本人いわく「本当に田舎の家庭」で、両親と妹の4人家族に育った。
少年時代に打ち込んだのは陸上競技だ。小中学校から短距離に取り組み、勉強一辺倒というよりは、部活で一生懸命走っていたという。走ることはいまも続いている。今はマラソンに転向し、取材の翌週には横浜マラソンへの出走を控えていた。
もう一つの原体験が、ものづくりへの関心だった。プラモデル、ミニ四駆、ロボット。手を動かして何かを組み上げるのが好きで、ロボットアニメにも夢中になった。大学生のころからはガジェット好きにもなり、その延長でナノテクノロジーにも惹かれていく。「振り返ると、その辺りがいまの仕事につながっているのかなと思います」。
進学先は関西大学の機械系。車やロボットが好きだったから、という素直な理由だった。そこで研究室を選ぶ際、機械系でありながら半導体を研究する教員と出会う。ナノテクノロジーへの興味が、半導体という具体的な研究対象と結びついた瞬間だった。学部から博士課程まで、井上は9年間を関西大学で過ごす。
半導体冬の時代に選んだ、博士と海外という道
研究室に入った2008年ごろは、日本の半導体産業にとって厳しい時代だった。エルピーダメモリの経営危機が取り沙汰され、半導体の就職先そのものに先行きの不安が漂っていた。
そこで井上は考えた。関西から半導体の世界で大きく勝負するなら、博士号は取らなければならない。しかし博士を取っても、その先のポストが国内には見当たらない。ならば、博士課程のうちから海外に挑戦するしかない――。
転機は、ウェブで見つけた一件の募集だった。ベルギーの研究機関imecのインターンシップである。指導教員の紹介でも、共同研究のつながりでもない。
ネットで見つけて、自分で応募した。
当時の面接は、ウェブ会議ではなく電話回線での会議。話してみると、井上の研究とimecで進む研究が驚くほど一致していた。「じゃあ、すぐにおいでよ」。2011年、井上はベルギーへ渡る。
当時のimecを、井上は「伸び盛りの途中」と振り返る。すでに世界的な研究拠点だったが、さらに成長を続けているという印象だった。海外に出ることに抵抗がなかったわけではない。それでも、国内にとどまっていては道が開けないという空気が当時はあった。「これをチャンスにしなければ、という気持ちでした」。
imecとは何か ── 世界中の企業が集う「開かれた研究所」
imecは、ベルギーの学術都市ルーベンに拠点を置く研究機関だ。彼ら自身が「オープンイノベーション拠点」と呼ぶその場所には、世界中の半導体関連企業が集まり、先端半導体の研究開発が行われている。研究者や技術者、企業からの派遣者など、6,000人を超える人々が集う。
その存在感を象徴するのが、いまや先端半導体の量産に欠かせないEUV露光装置だ。オランダのASMLが手がけるEUV露光装置を量産に活用していく過程では、imecも、半導体メーカーや材料・装置メーカーなどとともに技術の検証やプロセス開発を担ってきた。装置をimecに持ち込み、材料メーカーや装置メーカーがオープンな環境で一緒に開発を重ねる。設計、デバイス、材料、装置――半導体のエコシステムを構成するプレイヤーが一堂に会して先端技術を磨く。それがimecという組織の本質である。
ランチと飲み会で、自分の居場所をつくる
当時のimecで、日本からの学生は井上ただ一人。周囲にいた日本人は、企業から派遣された駐在員ばかりだった。言葉もおぼつかず、最初は相手が何を言っているのかも分からない。それでも井上は、とにかく会話することにこだわった。
チームの仲間とランチに行く。分野の違う日本人駐在員にも、片っ端から話しかける。3D実装の研究チームだけでなく、メモリーやレジストなど、多いときには60〜80人ほどいた日本人のコミュニティに、自分から飛び込んでいった。
英語も、行ってから必死に身につけた。「TOEICの点数が高くても、聞けるけど話せない、ということはありますよね。だから学生には、臆せず行っちゃえと言っています」。専門性という共通言語があれば、あとはなんとかなる――それが井上の実感だ。
学生として1年を過ごすと、imecから「ぜひ戻ってきてほしい」と声がかかる。日本で学位を取ると、すぐにポスドクとしてベルギーへ戻り、やがて正規の研究員へとステップアップした。駐在員の多くが2〜3年で入れ替わるなか、井上は気づけば日本人コミュニティの「長老」のような存在になっていた。分野をまたいだ飲み会を企画し、新しく赴任してきた人の苦労話の聞き役にもなった。
「チャレンジしに来ている駐在員の方が多かったので、同じように挑戦している私をかわいがってくれる人が多かったんです」
当時ともに過ごした人々の多くは、帰国後にそれぞれの企業で要職に就いている。その縁が、いまの井上の活動を支える大きな財産になっている。
研究の理想と、量産の理想のあいだで
10年に及ぶimec時代で、最も苦しかったのはいつか。井上が挙げたのは意外にも、学生やポスドクの時期ではなく、正規職員になった直後だった。
ゲストリサーチャーの立場なら、研究に打ち込んでいればよかった。ところが職員になると、仕事は研究だけでは済まない。パートナー企業との連携、現地のエンジニアやラインの担当者とのやり取り、ビジネスデベロップメントまで、コミュニケーションの幅が一気に広がった。
とりわけ大きかったのが、研究者とパートナー企業の目線の違いだ。研究者は、新しいこと、挑戦的なことを実証できれば評価される。しかしパートナー企業は、事業として成り立たせなければならない。求められる数値は量産に近い水準で、それを達成するにはエンジニアとも密にすり合わせる必要がある。
「研究の理想と量産の理想には、結構な差がある」。
そのギャップを埋める日々が、井上にとって最もしんどい時期だった。
だが、その経験はいま確かに生きている。大学教員として学生を指導し、研究を進めながら、幅広い企業と連携する――。研究者としての探究心と、量産現場への想像力。その両方を併せ持つ井上の現在のスタイルは、この苦しい時期に形づくられたものだった。
35歳、コロナ禍のさなかに帰国を決めた井上は、横浜国立大学で研究室をゼロから立ち上げる。目指すのは、研究と量産のあいだに横たわる「死の谷」を埋める場――日本版imec。100社超が集う3DHIの運営で大切にしていること、日本ならではの「つなぐ」モデル、そして3D積層という研究の最前線を聞く。
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