前編【和田木哲哉(SBI証券)】トップアナリストの原点

和田木哲哉

和田木哲哉

SBI証券 経済企業調査部 企業調査課 シニアアナリスト

· 22026.10.07
この記事を読むのにかかる時間: 5 分

── 教育学部卒は、なぜ東京エレクトロンから野村證券へ渡ったのか

半導体・製造装置セクターを長年リードしてきた人気アナリスト、和田木哲哉(わだき・てつや)。
日経ヴェリタスなどの人気アナリストランキングで精密・半導体製造装置セクターの常連として知られ、現在はSBI証券に籍を置く。
だがそのキャリアは、証券会社出身の秀才コースとはおよそ縁遠い。
金沢の堅い家に生まれ、大学では遊び倒し、メーカーの経理部で「どん詰まり」を味わった――。
異色のアナリストは、どうやって「遅れてきた本気」に火を灯したのか。前編では、その原点をたどる。

金沢の堅い家、そして「入学時が一番賢かった」大学時代

1968年、和田木は金沢に生まれた。
父は銀行員、母は専業主婦、祖父は警察官。絵に描いたような「お堅い家」である。
地元の進学校に通い、本人いわく勉強は嫌いではなかった。
ただ、読書ばかりで、机に向かってこつこつやるタイプではなかったという。

上京して進んだのは早稲田大学教育学部。もっとも、教育に強い思い入れがあったわけではない。
一橋の社会科学系に挑んで及ばず、某国立大学の経営学部を滑り止めで確保。
浪人か、早稲田か、某国立大学か――迷った末、「田舎ではやっぱり早稲田の方が名前が通っているから」という理由で選んだ、というのが本人の弁だ。

そして大学の4年間は、見事なまでに遊び倒した。当時を振り返る和田木の言葉は、いっそ清々しい。

「明らかに、入学した時の方が、卒業した時よりも賢かった。
日本の大学教育は、入った時よりも卒業する時の方が馬鹿になる――そう言う人がいましたが、身をもって体感しましたね」

時はバブル期。
就職はどこでも取ってもらえるような売り手市場だった。
それでも、遊んでばかりで誇れる取り柄もスキルもない。
総合商社には学歴で届かず、面接では方言を指摘され、露骨な物言いをされたこともあった。
今では考えられない時代の話だ。そんな中で和田木が目をつけたのが、専門商社という業種だった。

「見事に作戦に引っかかった」── 東京エレクトロン入社

数ある選択肢の中で、和田木は伸び盛りの一社に狙いを定める。
東京エレクトロン(TEL)だ。業績を見れば右肩上がり、特定分野では世界トップシェアの製品をいくつも抱えている。「専門商社×ハイテク」という響きに憧れての入社だった。
ところが――。

「あれは見事に作戦に引っかかりました」。和田木は笑う。
当時のTELは、人を集めるために『商社』という業種を掲げていたが、実際には売上の7割が半導体製造装置メーカーとしての事業で、商社機能は3割弱にすぎなかった。
つまり和田木は、商社だと思って製造装置メーカーに入社した口だった。

配属されたのは経理部。和田木のキャリアは、この経理・管理系の仕事から始まる。
事業部の管理部門も渡り歩いた。
だが、これといった仕事に出会えず、未来が見えてこない。
転職しようにも、これといったスキルがあるわけでもない――。
20代の和田木は、自らのキャリアに展望を失い、いわば「どん詰まり」に陥っていた。

その暗がりを照らしたのが、当時のTEL経営陣だった。
大きな会社でありながら、会長らは若手を食事に連れて行き、個人的に話を聞かせてくれたという。
半導体がいかに未来のある産業か。
半導体が発達すればインターネットのようなものが生まれ、世界のコミュニケーションと相互理解が進み、平和な世の中がやってくる。
国土の限られた日本でも、汚染物質をさほど出さずに富を生み出せる、素晴らしい産業なのだ――。

経営トップが自らの言葉で語る産業のロマン。
人生のどん詰まりにいた20代の若者が、これに動かされないはずがなかった。
「一発でポッときちゃいますから」和田木がいまなおハイテク業界に情熱を注ぐ原点は、この時に授けられたものだった。

20代後半からの猛勉強 ── 1000時間の設計図

産業への憧れが芽生えても、キャリアの停滞がすぐに晴れたわけではない。
むしろ和田木を突き動かしたのは、遊び倒した学生時代への痛烈な後悔だった。
勉強が大嫌いだった自分が、ようやく机に向かえるようになったのは20代後半。
人生をやり直すように、和田木は猛烈に勉強を始める。

目標に据えたのは、米国公認会計士(USCPA)。
合格したのは1998年の末、ちょうど30歳の時だった。
仕事で成果を出しながら、なおかつ客観的な資格も取る――この両輪が、後の転職で効いてくる。
「資格を取っているということは、言っていることの半分くらいは本当だろう、と信用してもらえる」からだ。

苦しみ抜いたのは3〜4年。
だが和田木は、根性論だけで乗り切ったわけではない。
そこには、緻密な「設計図」があった。

「1000時間あれば、そこそこの難関資格は取れる。年間250日、昼休みと、仕事が終わった後の2〜3時間。
2時間×250日×2年で1000時間です」

さらに和田木は、人間の心理そのものを計算に入れる。
「人間の緊張感は、絶対に下がっていくもの。それが人間のネイチャー(本性)です」。
やる気は始めた瞬間が最高潮で、あとは落ちていく。
ならば、下がることを前提に仕組みを作ればいい。
学校に通う形にして強制的に机に向かう、決算のたびに必ずレポートを数枚書くと決めて習慣化する――。
「決めた以上は、絶対にやり抜く」意志の強さを、仕掛けで下支えする。それが和田木の流儀だった。

「直接、行けばいい」── アナリストへの転身

転機は1996年ごろ。
野村総研に就職した友人が送ってくれたアナリストレポートに、和田木は目を奪われる。
「こういう仕事があるのか」会計の勉強を活かしながら、憧れの業界の近くで働ける。
アナリストという仕事への憧れが、はっきりと像を結んだ瞬間だった。

とはいえ、メーカーの管理部門からアナリストへ。
そう簡単に道は開かない。
転職コンサルタントに当たっても、返ってくるのは「いや、無理だよ」「そんなの、なれないよ」という言葉ばかり。前例がまるでないわけではなかったが、いずれにせよ狭き門だった。

道を開いたのは、同僚の何気ないひと言だった。
「転職コンサルなんか使っちゃダメだよ。直接行けばいいんだよ、直接」半信半疑で履歴書を直接送ってみると、拍子抜けするほどあっさり面接にたどり着いた。
「あの友人は、人生を変えてくれた」と和田木は感謝する。

背中を押したのは、やはりメーカーの管理部門で味わった停滞感だった。
資格を取り、仕事で成果を出し、社長表彰まで受けた。
それでも、「自分が思うようには、2割ほどしか評価してもらえない」営業への異動も考えたが、それでは苦労して積んだ会計の知見が無駄になる。
会計の知見を活かし、業界の近くで勝負できるアナリストへ――。
応募の結果、和田木は野村證券から内定を得る。
9年間を過ごしたTELを出る決断だった。

後編|「限界的アナリスト」から、スーパーサイクルを当てるまで

英語もできないまま飛び込んだ野村證券で、和田木は面と向かって「こいつは、うまくいっても10位止まり」と言い放たれる。
そこからいかにしてトップアナリストへ駆け上がり、2016年のスーパーサイクルを言い当てたのか。
モデルを疑う目、点と点を線に結ぶ勘、そしてAI時代に人間が磨くべきもの。
後編でお届けする。

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